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ぷにろぐ

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ざっと
最近読んだ本について。


大統領の英語 松尾一之著、講談社学術文庫

アメリカの歴代大統領を政策や人間性などの観点から解説してくれる。実際に話された言葉や教書演説の英文が載っていて、それに対する解説、考察がなされているので、時代背景を掴めるという点では近代アメリカの歴史入門書のような感覚で読める。

ここでの「英語」とはアメリカ社会を映し出すようなもので、文法やスペルに寛容なアメリカ英語から、君主制から逃れてきた背景を持つ国の民主主義に対する意識が窺える。

ところで、J・W・ブッシュ大統領に関しては「あぶない英語」などと書かれているように、彼の発言がいろいろと議論を呼んだ事についても書かれている。English Patientなどとジョークにされたらしい。読み終えて分かるのだが、歴代大統領に比べ、ブッシュに関しては資質を疑うような気分になる。現職なので歴史的評価が難しいのかもしれないが、これ程困った人も珍しい。


Age of Propaganda A・プラトカニス/E・アロンソン著、誠信書房

嫌と言うほど広告にさらされて生きている現代人への教育書みたいな感じ。邦題に「広告、政治宣伝のカラクリを見抜く」とあるように、「洗脳」の具体的な内容に触れることが出来る。こういった本でよく言われるのが広告は「事実よりもイメージを植えつけようとする」と言うこと。一般に言う「広告とは消費者と企業が双方の利益にかなった正しい情報の交換」と言うのはとんでもない馬鹿げたでたらめで、実は広告は巧妙に消費者を操作する。

「PR」と言う本によれば、現代の情報操作の起源は実は100年近くも前の事で、その時すでにイメージによる洗脳は始まっていたと言われている。社会の秩序維持には少数エリートが「適切に」大衆を導くべきだ、と言う考えが強く、それが後の広告業界に多大な影響を及ぼした。

この本で書かれているのは、そうした巧妙な宣伝の具体的な方法と、その病的なまでの思想。広告やら宣伝などに影響されないと思っている人こそ読んでみるべきだと思う。何か物を買う時に、その決定はいったい誰が下しているのか。物の本当の価値で買っているのか、それとも広告が植えつけるイメージが気付かぬうちに引き金となっているのか。

「~を持っていることがかっこいい、~を着ていることがかっこいい」などと思って消費している人間は、実はある意味ではものすごく幸せな無害な連中だと思う。悲劇なのは、そうでない人間が知らないところで操作されてしまっている事かも知れない。

ところで、本書の中で「何も言う事が無ければ歌えばいい」と言う広告の手法があるらしいのだが、W杯中に「コッカコーラを飲も~うよ!」と馬鹿みたいに踊って歌う明石家さんまのCMを思い出して笑ってしまった。 


Survivor チャック・パラニューク著、ハヤカワ文庫

映画Fight Clubの原作小説を書いた人の第2作目。著者のHPが非常に充実していて全く飽きないのだが、彼の作品は「孤独な人間の他人とのつながりについて」がテーマらしい。Fight Clubなんか確かにそうだ。主人公は…もう言わなくても分かる。

この作品の主人公テンダーは、あるカルト教集団の中で生まれた。教団で生まれた子供は堕落した外界の奉仕者となるべく、一定の年齢に達すると社会に出される。主人公は金持ちの家の家政夫をしていた。

前半で、ある偶然から自宅に自殺志願者が電話をかけてくるようになり、彼はその背中を押し始める。つまり「死ね」と。この「死」と言う概念は彼の中で重要な位置を占めていて、彼は内面でそれを模索する。中盤から後半にかけて、ある奇妙な少女との繋がり、そしてカルト教団の生き残りとしてメディアから「カリスマ」に仕立てられ、彼の人生は多くの嘘によって変わる。

実は彼は頭がいい。日常生活での有用な情報をたくさん持っている。そしてその情報は多分に虚偽のために使われてしまうのだが、このあたりにFight Clubとの共通項が見える。頭のいいタイラーは、最後にはビルを爆破する。テンダーは作品の最後に飛行機をハイジャックし墜落させる。

こうした最後を見ると、誤魔化しだらけの現実を受け入れられない人間の葛藤が見えてくる。彼らを見ていれば、著者の言う「孤独な人間」がどういう人間だかイメージできると思う。ファイトクラブでタイラーは言う。「神が俺たちに気付いてくれないなら、神に憎まれた方がマシだ」この言葉が響く。


ドキュメンタリーは嘘をつく 森達也 草思社

最近では一番面白かった作品。オウム信者を題材にした映画「A」の作者の本。

これまで「事実が大切」といかに簡単に口走ってきたか思い知らされ、「事実」について考えさせられた。著者は公正中立が謳われるドキュメンタリーを「有り得ない」とばっさり斬り捨てている。カメラと被写体がある以上は表現者の表現行為であり、そこに個人的な意識が絡んで当然だ、と。

事実とは何かと思う。人間が知りえる情報は、まさにその個人が目撃した事か他から得られる情報に過ぎない。ものすごく極端な話になるが宇宙人はいない、ネッシーはいないと言うのはこの観点からすれば情報だと思う。夫の知らないところで妻は浮気をしているかも知れない。知らない事を得ようとすればそれは必然的に受けてになりがちだ。だからこそ中立など有り得ない。

オウムの事件に関して著者は社会が思考停止に陥ったと言う。動機が不明の大量殺人を考えず単純悪として片付けた(誤解の無いように言っておくがオウムの犯罪を肯定する内容では全く無い)。被写体にモザイクを入れる報道はこれを期に増したと言っている。モザイクが得体の知れ無い負の象徴として使われたと。

ドキュメンタリーでは被写体を映す表現者の葛藤が視聴者に思考を促す要素だとしている。逆にそれがものすごくリアルだ、と。確かに現在において人が受け取る情報とはパッケージ化された消化しやすい商品でしか無い。何の苦痛も無くすんなり飲み込める。だがそれでは絶対に実を定義できない。情報の受け手である人が事実を自ら知りえない前提に立てば、必ずそこに意見や葛藤を持って対抗するしかない。だからオウム報道のモザイクは受け手に事実を「悪」として片付ける。

自分の知らないところで何が起きているかについては、人はあらゆる想像が許され、意見が持てるはずなのに、情報を提示されたときに、思考が止まるのはおかしいくないだろうか。なら事実って何だとなるが、その終わりの無い葛藤が大切なのかも知れないと考えさせられた。



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| books | 20:08 | トラックバック:0コメント:0
Punk Attitude!
パンク・ロックの歴史を追ったドキュメンタリー。

過去のパンクシーンを生きてきたミュージシャンや雑誌記者、クラブのオーナー等が当時の歴史を振り返り、パンクロックを再考しているインタビュー形式のドキュメンタリー。

ロックの歴史とはそういうものなのかも知れないが、「全て繋がっている」。パンクの歴史なんてあまり考えた事も無かったけど、ある点から出発してある点に帰結する様子は非常に興味深い。

俺の解釈だとラモーンズ、ドールズの台頭がイギリスに飛び火し、ピストルズ、クラッシュが現れ(例の安全ピンファッションが完成され)、ピストルズのアメリカツアーで逆輸入され、文化的に受け入れられたパンクがその誤解された解釈のまま衰退し、ハードコアなどに流れるって感じで捉えている。

映画を見て感じたのだが、いわゆるパンクシーンの一番濃密な部分は非常に短い期間で終わっていると言うことだ。「パンクは危険」と言う間違ったレッテルのまま表舞台に出ることの無かった文化が広く開放された時には全く違ったものになってしまっていた。あるバンドのメンバーも嘆いていたが「頬に安全ピンを突き通す」のは行き過ぎた勘違いであると(本来の安全ピンの使用は破れた服をつなぎとめる実用的なものだったと語られている。)。

作品の後半部分ではハードコアと化したパンクからヒップホップへの批判、そしていわゆるミクスチャー、メロコアに対する意見などが語られる。個人的にはこの部分が印象に残ったところだ。

ソニックユースのメンバーはこう語る。「ヒップホップは金儲けの道具に過ぎない」と。俺もこの見解の良し悪しはともかく、共感できる部分はある。パンクが体制批判によってアイデンティティーを見出すのに対し、ヒップホップは、作品内の言葉を借りれば、「体制の側になる」事を目的としている。以前、JAY-Zと言う大物ラッパーのドキュメンタリーをニュース番組で見たことがある。彼は苦難の少年時代を過ごしながらもヒップホップに自己を見出しスターダムにのし上がる。だが俺が違和感を感じたのは、大物になった彼がレコード会社の大物重役(演劇を見てクラシックを聴いているような連中)の前で自分の新作を発表し、重役たちは首を揺らしながら曲にノッている。こんな茶番があるかと。ここで共通しているのは「ビジネス」としての音楽。ラップと何の縁もなさそうなじーさん達とJAYーZの繋がりは体制と言うカテゴリーで共通する。

確かにラップはそれで金を稼ぐことがひとつの成功のモデルにされている。ラッパーの自伝的映画には確かにそういうものが多い。ただ、パンクロックからすると、それは裏切りに繋がるのだろう。ヒップホップもパンクも自身の苦難を歌う部分では共通するが、その場に留まり続ける事で尊敬を得るか、そこから抜け出す事で成功の羨望を得るのか、後者の部分が自分のルーツを忘れないパンクからすると批判的になる部分であろう。

これと共通してか、最近のいわゆるミクスチャー、メロコアに対しても批判的な意見が聞かれる。作品内でランシド、リンプビズキッド、グリーンデイなどが出される。付け足すならサム41やオフスプリングなどもそれに加わるだろう。彼らはこうしたシーンを「生産された怒りだ」と嘆いている。

難しい部分ではある。俺の友人で洋ロックを聴かない人が「グリーンデイって凄く聞きやすい」と語っていたのを思い出した。彼らにはポップで聞きやすい特徴があるわけだが「だから悪いのか」と言う話にもなるし、判断が下しにくい。「何を歌っているのか」についても「生産された怒り」と判断すればそれまでである。だからこそ、この部分をもう少し詳しく掘り下げて欲しかった。俺自身、グリーンデイやオフスプリングをクラッシュやピストルズと同等のパンクだとは思っていない。以前ビリージョーが自身のシグネーチャーモデルのギターの宣伝に出ていたがパンクを自認するならばやって欲しくは無い。現役バリバリのパンクロッカーが企業の宣伝に使われるのは否定的だ。だが、それが彼らの全てを否定することにはならない。この映画で残念なのが、そのあたりの批判を「商業主義」とまとめて唾棄しているところである。これではオヤジの愚痴だ。映画のスタンスとして、現在のこのようなシーンをパンクとすること自体否定しているのかも知れない。だが現在のシーンと密接に関わる世代として、建設的な批判が聞きたかった。それは少なくとも「今」を再考するきっかけにもなり、過去にも目を向ける助けになるはずだ。


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| Rock | 16:45 | トラックバック:0コメント:0
INSIDEMAN
スパイク・リー監督の最新作。

劇場公開の時から気になっていたけど、ようやくビデオで出たので早速借りてきた。

スパイク・リーと言えば人種問題を中心とする社会的なテーマで有名だ。Do the right thingやマルコムXあたりが有名な作品だろう。個人的にはちょっと前の「25時」と言うエドワード・ノートン主演の映画も好きだけど。

過去の作品は直接的にそういった問題を訴えるものが多かったような気がするけど、最近では、例えば「25時」のように、日常の中の複雑な問題を映画のテーマとはまた別に浮き彫りにさせるような感じで、妙にリアリティーがある。

それは今回見た作品もそうだ。



(以下内容を含む感想)



NYの銀行を強盗団が銀行を襲う話だが単なる銀行強盗では無い。ものすごく頭が切れる。対するは黒人刑事2人組のネゴシエーター。彼らのやり取りが非常に面白い。

この映画の評判は知らないけど、犯人が人質全員に自分たちと同じ服を着せる筋書きはちょっと話題になったような気がする。手際よく銀行に押し入り、服装で人質と自分たちの区別をあいまいにし、警察を撹乱する。しかし、彼らの要求は見えてこない。金か、それとも別の何かか。犯人と刑事の交渉の様子が凄く面白い。

多様な人種が混在するアメリカ。いくつものシーンで人種の多様さが描かれている。単純なサスペンスやアクションでは絶対に描かれないリアルさ、焦点は強盗と刑事なのに、そういった社会的事実が感じられるのがスパイク・リーらしさなのだろうか。

例えば犯人と同じ格好で解放させられたアラブ系人質。刑事は彼に「同時多発テロ後の対応」をする。犯人が操作撹乱のため流したアルバニア語のテープ。刑事は「ホットドッグの屋台をやっている奴なら翻訳できるかも」と言う。屋台の人間に移民が多いのかは知らないけど、昔見たスリーパーズと言う映画に出ているホットドッグ屋台の人間は移民だった。こういったところに「アメリカ社会」があるのかも知れない。

オチを言えば、この映画は一応犯人の勝ちで終わる。その動機もまた、歴史を超えた民族感情なのだが、これを書くと決定的なので伏せておく。オーシャンズ11とは全然違う痛快さ。後半で強盗に遭った銀行の頭取の過去が大きく絡んでくるのだけど、その事実が単なるエンターテイメントで終わらせて無いのかも知れない。

個人的には面白かった作品。彼の過去の作品には見ていないものもあるので今後チェックしていこう。


Inside_Man_28film_poster29.jpg

| 映画 | 04:04 | トラックバック:0コメント:0
Futsal again
先週日曜日に、久々(本格的には2年ぶり)にフットサルをやった。

友人とそのうちの1人の友人のチームとの練習試合みたいな感じだったのだが、天気にも恵まれ2時間たっぷり楽しめた。

楽しむ事が第一なので勝敗や内容は関係ないけど、相手は定期的に動いていたようで、スタミナの面でやや劣っていた部分があったかな。それ以外では経験の差はあるもののそれぞれの持ち味が出ていて、定期的にこなしていけば問題ないレベルだと思う。一度練習する機会があれば良いチームになるでしょう。(約1名サワー沢口になりかけた奴がいたが)。


で、以下は今回、一応本気で臨んでいた俺自身の反省。


総括:2年ぶりにしては悪くない。でもまずい部分もいくつか。

●ニアの失点がいくつか。これは致命的、改善しないと。
●足元の方が…。相変わらずの悪い癖。
●壁に当たったボールが背中に当たり失点。ピッチの都合、仕方ないのだが。

てな感じだろう。

それでも嬉しいことが。相手チームのキャップが俺のプレーを認めてくれたらしく、わざわざメールで助っ人の要請をしてくれた。彼はかなりうまかっただけに、認めてくれたのは自信になる。これからも精進精進。

基本的に相手のチームのメンバーも凄く良い連中で、ミックスチームでやっても盛り上がったのが一番良かった事だ。帰りの食事にも参加してくれた奴もいて、またあのチームとうちのチームで出来ればと思う。

とにかく月に1度でも動く事が重要だと思った。

それは翌日の激痛でさらに思い知らされる事になるのだが。
| 日記 | 19:23 | トラックバック:1コメント:2
taxi driver
若き日のロバート・デ・ニーロ主演の映画。

海兵隊を除隊したトラヴィス(デ・ニーロ)がタクシードライバーの仕事を得るものの、クソ面白くも無い人生、掃き溜めのような社会に怒りを抱き、怒りに任せて彼を振った女が支持していた大統領候補を暗殺しようとするお話。

30年程前の作品なので、これまたラストを言うが、こういった映画に見られる絶望的なオチではないところが意外である。

作品の後半を除いて、描かれる彼の人生は絶望的だ。海兵隊を除隊してタクシーの職を得たものの、彼の目に入るのは自身の人生への嘆きと、それをぶつける対象としての腐った世の中だ。

彼は言う。「俺は孤独だ」と。友人も無く、仕事もクソ。好きになった女には振られる。何もうまくいかない。さらに彼が車で流す街は掃き溜めの中のクソ以下だ。彼は無知で不器用。そんな社会に怒りを感じるが、何がおかしいのかうまく説明は出来ない。そんなトラヴィスは徐々に過激な思想を抱くことで、世の中に復讐を企てる。

ありがちな展開ではある。こういう話の場合、大抵は主人公に未来は訪れない。別に主人公が悪人では無いのだけど、社会が受け入れない人間は悲惨な末路を辿るものである。職業はある意味では関係ない。この前見た「ファイトクラブ」はホワイトカラーが主人公だ。もちろん職業の社会的地位は、それを肯定するにしろ否定するにしろ、明らかに存在するので、考慮に入れないのはおかしいかも知れないが、要するに彼が自分を直視できるかどうか、そんな極めて人間的な問題にたどり着く。

トラヴィスはものすごく間違った方向へ進もうとしていた。怪しいバイヤーから銃を買い、上院議員を暗殺しようと企てた。だが彼には出来なかった。直前でSPに見つかってしまったのだ。彼は逃げ延び、今度は12歳の家出少女(ジョディ・フォスター)を売春させていた組織から彼女を救うため、メンバーを怒りに任せて銃殺する。その時は、もしかしたら「女の子を救う」と言う意識よりは、彼の社会への怒りが動機だったのかも知れない。自分の境遇を社会に照らし合わせ動機を持つ連中はいくらでもいるが彼もその一人だった。

ただし売春させられていた女の子への気持ちは本物だった。不器用な彼は彼女に熱い説教までした。結果として彼女の耳には届かなかったが。

そして組織のメンバーをぶち殺したところで警察が到着する。彼は、売春組織から女の子を救ったとして英雄に祭り上げられる。この結果は彼が予測していたものでは当然無い。たまたまそうなっただけだ。

ラストは彼を振った女を客として車に乗せるシーン。「新聞で読んだわよ」と彼を讃える女。トラヴィスはどこか満足そうだ。目的地で彼女を下ろし、金を受け取らず去っていく。新しい人生の始まりだ。

映画の中では彼は「たまたま」うまくいっただけだ。だが、それが視聴者に希望をもたらす。真面目だが不器用で無知な彼が救われるのは、見ている側にも救いなのだ。ふざけた世の中だが報われる人が報われるべきだ。それは架空の話の中だけと思わない事が大事なのかも知れない。

見て思ったのは、彼のような真面目な人間はいつか必ず報われる時が来るべきなのである。間違った方向に進んだ彼の道を修正したのが神様なら、それはそれでいい話じゃないだろうか。

Taxi_Driver_poster.jpg

| 映画 | 04:45 | トラックバック:0コメント:0
反社会人
The first rule of fight club is You do not talk about fight club.

Fight Club、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンが出演する映画である。

俺が高校の時に初めて見て以来、もう10回近く見ている作品だ。これ程、メッセージ性が強く、痛々しく、虚しく、そしてどこか爽快な作品はなかなか無いと思う。

「単なる暴力映画」「オチが意外」など表面的な捉えられ方もされたみたいだが、この作品の本質はそんなところにあるのでは無い。俺も一番初めに見た時はその中身を確実に捉えてはいなかった。今もそうだが、当時は今にも増してナイーヴな、無知な人間だったから、単に「タバコを咥え何かに反抗しているタイラー(ブラピ)がかっこいい」程度の認識しかなかった。それでも、その後何度も見続けて来たのは、一応その時感じるものがあったからだろう。

大手自動車会社に勤める、いわゆるヤッピーの主人公(ノートン)とタイラーが、週末に男同士が殴りあうためのサークル「ファイト・クラブ」を結成。それは徐々に勢力を拡大し、最終的に「メイヘム計画」で金融街を爆弾で壊滅させる。もう何年も前の映画なので決定的なネタを言うがタイラーは主人公が創り出した意識上の人物であり、実際には存在しない。

おもしろいのが、作品内で主人公は最後まで名前が無い(明かされない、と言うべきか)。ラストのエンドロールでも「ナレーター:エドワード・ノートン」として紹介されている。映画を見れば分かるが、主人公は最後を除いて「自分」と言う認識をうまく持てていない。高い地位の仕事に就き、高級アパートに住み、高級北欧家具を磨く事でストレスを発散しているが、彼は何年も不眠症だ。がん患者や喘息患者のサークルに侵入し、まやかしの癒しを得る。そんな時、彼はタイラーに「出会う」。

タイラーは主人公とは全く逆の人間だ。もちろん主人公とは一身同体なのだが、そこが主人公の人生への葛藤を浮き彫りにさせ、そしてタイラーに同調するようになる。以下にタイラーを象徴する作品内の台詞を挙げる(殆ど字幕からの引用だが、ごく一部は俺の判断で変えている)。

●主人公の自宅が火事に見舞われ、自慢のブランド品の数々がパァになった事をタイラーに酒場で嘆く。それに対して…
タイラー「デュヴェを知っているか?」
主人公「ふとん?」
タイラー「いや、正確には毛布だ。だがなぜその名を知っている?生存のための必需品でも無いのに皆が知っている。それは何故か?」
主人公「消費文明の世の中だから?」
タイラー「そう、我々は消費者だ。ライフ・スタイルに仕える奴隷。殺人、犯罪、貧困を誰も気にしない。それよりアイドル雑誌にマルチ・チャンネル、デザイナー下着、毛はえ薬、インポ薬、ダイエット食品…」
主人公「それにガーデニング」
タイラー「ファック・ガーデニング、タイタニックとともに海に沈めばいい。(火事で焼けた)ソファなんか忘れちまえ。パーフェクトであることをやめろ。頭を切り替えて自然な生き方をしろ」
主人公「いいんだ、たかがモノだ。保険もかけてある」
タイラー「お前はモノに支配されている」

●バスの壁のジムの広告を見て
主人公のナレーション(人を見る目が違ってきた。こいつはファイターかどうか。ジムに押し込められ、カルバン・クラインやトミー・ヒルフィガーのようになろうとしているアホども)
主人公「あれが本当の男か?」
タイラー「ワークアウトはオナニーだ、男は自己破壊を

●ファイトクラブ開始の前口上で。
タイラー「君たちは素晴らしい知力と体力に恵まれている。だが伸びるべき可能性は潰されている。職と言えばガソリンスタンドかウェイター、奴隷のように仕えるサラリーマン。宣伝文句に踊らされて、必要の無い服や車を買わされる。俺たちは歴史の狭間で生きる目標が無い。世界戦争も無く恐慌も無い。俺たちの戦争は魂の戦争。毎日の生活が大恐慌だ。TVは言う『君も明日は億万長者かスーパースター』。大嘘だ。その現実を知って、俺たちはムカついている

こうして見ると反体制ティーンが騒ぐ青春映画のような台詞である。しかし、彼らは紛れもなく「社会人」。その事実が、青春映画に見られる「理想を語る青臭さ」を感じさせず、リアルな現実感が襲いかかってくる。主人公はいわゆるX世代。両親が離婚し母親に育てられた。タイラーはそれを「子にとっての神である父親に捨てられた。俺たちは神に見放された子なんだ」と言う。高い教育を受け、物質的にも豊かでそれなりの職もある。だが気が付けば恐ろしく虚しい感覚に襲われる。彼らはそんな環境で個を見失い名前を取り上げられたのだ。

このブログのタイトルの「反社会人」とは、土曜に飲んだ友人の一人が言っていた言葉だ。彼がこれを言った意味は別にあるが、俺が思い浮かんだのがタイラーであり、この映画だった。実際彼らは終盤で反社会的な行動をとり壊滅していくのだが、それに関係なく、ファイトクラブは自分や環境に疑問を感じた連中の発散の場。どこかの国の元サッカー選手のように「自分を探す」時間も金もあるわけではない。平日に社会人である彼らが、週末に真の姿「反社会人」になれるむさいオアシスだった。

しかしタイラーの暴走が破滅を招く。彼は軍隊のような組織をクラブ会員で作り、ビルの放火や飲食チェーン店の破壊などテロ行為によって、文字通り地下活動(酒場の地下でやっていた)だったファイトクラブが地上に出て、社会を相手に喧嘩を始めたのだ。それが彼の最大の失敗でもあった。タイラーは決められた価値観を押し付ける社会への反発でファイトクラブを組織したのだが、自分の価値観を社会に押し付けるべきではなかった。それが、彼が最後に単なるテロリストに成り下がった原因だったと思う。

主人公はタイラーの暴走についていけなくなり、金融街を爆破し「借金をゼロにする」メイヘム計画の中止に奔走する。その過程でタイラーから「俺はお前が頭に描いた自分の理想像だ」と告げられる。頭が良く、何にも縛られないタイラーは主人公の空想の憧れだったのだ。いいアパートに住み、いい服を着て、高級家具を磨く自分自身の姿は社会が認めるポーズに過ぎなかったと彼自身も分かっていたのだ。これがもし、いいアパートを、服を、家具を、そんな自分を本当の意味で心から愛していたならタイラーは誕生しなかった。それはこの前読んだアラン・ド・ボドンの本にも通じるものがある。ただ自分を積極的に変えるか消極的に変えるかの違いだと思う。

最後に彼は自分を拳銃で撃ちタイラーを殺す。そして爆破されるビル群を見ながら「これから全てが良くなる」と悟るのだった。

455px-Fight_club_ver4.jpg

| 映画 | 18:51 | トラックバック:0コメント:2
これがサッカーだ!(何を今更…)
浦和レッズ対静岡FCの試合を祥様と観戦して参りました。

結果は5-0で浦和の圧勝。プロの格を見せつけた感じだった。そりゃそうだ。ある意味では当たり前の結果、静岡のGKの素晴らしいセーブがなければ後2、3点は入っていたと思う。当たり前の結果を当たり前に楽しめた。それが本当に最高だった。

別に静岡が弱いとかそういうことでは無い。浦和サポーターからすれば圧勝を期待していただろうし、その通りの結果になって、心から楽しめるゲームだった。しかも、ホーム。ほぼ360度赤で埋め尽くされる中の勝利は期待を十分に満足させてくれた。静岡FCもJを目指すチーム。ホームページも見たけど、エスパルス、ジュビロに続くチームになれればいい。俺がずいぶん前に強い印象を受けた河村も見れて良かった。てか天皇杯4回戦進出ってふつーに凄いぞ。

ところで、今回マジですごいなーって思ったのが、スタジアムの一体感。ピッチに近いつくりも理由のひとつだけど、赤を着ている一人一人が「今日は闘うぞ」と言う雰囲気で応援している。巨大なスタジアムでサッカーを観戦しているときに思うのが、俺ははるかかなたで行われている「ショウ」を見ているだけじゃないのか?って事。それぞれのサポーターも必死で応援しているのだろうけど、「一体感」みたいなモノが今日ほど感じられない。

もちろんレッズの人気や緊密な地域性の歴史もあるのかも知れない。でも、試合中の声がスタンドに届く、観客の声が響く、全員がゲームに集中している事が素晴らしかった。サッカー経験者であろうと無かろうと、古いファンであろうと3日前にファンになった人であろうと、それぞれの見方に正誤は全く無い。打てると思ったら「打て!」、上がるべきと思ったら「上がれ!」。TVで盛んに議論される、馬鹿馬鹿しいシステムやら戦術やらの理屈抜きに、全員が思い通りに「観る」「話す」。全体がそのような雰囲気になっていた試合は、俺が経験した中で今日が初めてだった。

会場に入る前に小野と平川に遭遇したんだけど、サポーターが「よー!」みたいな感じで手を振って、それに彼らも応えていた。選手も一般と同じ駐車場なんて良いじゃん。欧州では普通のようだけど、日本でも選手がふつーにファンと同じ道を通って、ファンもキャーキャー騒がず、「今日も頑張れよ」みたいに挨拶が出来るようになれば、それはサッカー文化が根付いた瞬間なのかも知れない。一時期「Jリーガー」がステータスになっていたけど、それはセレブと大衆の構図みたいだと思う。そうじゃなくて、立場なんか関係なく、選手もファンも同じ「勝つ」と言う目的のために集まる事が当たり前になれば、「ショウ」としてのサッカーはなくなり、本当の意味での地域のチームが出来上がるのだと思った。

ちなみに盛んにトゥーリオに「上がれ!」と大声で指示していたおねーさん、本当に最高でした。それが選手とファンが一体になった表れだと思う。

やっぱ、日本サッカー、おもしろいよ。欧州なんて俺には関係無いもんね。
| スポーツ | 19:36 | トラックバック:0コメント:4
もうひとつの愛を哲学する(原題:Status Anxiety)アラン・ド・ボトン著
この間近くの古本屋で買ってきた。今まで読んだ書物の中でもかなり印象的な部類に入ると思う。

タイトルだが邦題だと何を言っている作品か少し分かりにくい。原題の方が本書の内容をストレートに表しているのでイメージし易いと思う。

Status Anxiety

直訳すれば「ステータスへの羨望」とかそんな感じだと思う。人間の価値が「どんな仕事に就いているか、何を持っているか、何を着ているか、何を食べているか」などの「ステータス」で測られる社会で生きる現代人に前向きなメッセージをややシニカルに語ってくれる。

別の捉え方をすれば、そういったライフスタイル一辺倒な世の中を告発し、もう一度読者により良い暮らしについて考える時間を与えてくれるようにも思える。「ステータス社会」への変遷を歴史的に解説してくれていたのが個人的には良かった。

この本を読んで思ったのは、ステータス社会は形は違えど現在に至るまで歴史的に存在してきており、そこでの容赦無い人間の篩い分けに対する解答が今もってなされていない事だ。この本でも書かれているように「ステータス」とはつまり「金・物・地位の所有」である。現代ではほぼそれが100%ではないだろうか。そしてその基準がその人間の身分を決める。

だがそれはいわゆる日本でも議論される「格差」の問題では無い。そもそも「格差」と言う考え方自体がおかしい。よく言われるが、今では多くの国が自由競争の社会。確かにいろんな問題も含むが、それは人間の平等を確立するうえで絶対に必要なものだ。その中で「経済的な格差」が出るのは当然だし、健全な事だと思う。

問題なのは(そして一番俺がムカつくのは)それを「人間の価値の格差」として当たり前のように適用する事だ。本書の中で過去の身分制度社会では意外にもステータスの格差への不満が少なかった事が挙げられている。それは階級間に尊敬があったからと述べている。例えば低い身分である農民は、社会的な尊敬を受けていた。ピラミッドの下層にありながらも、ピラミッド全体の食料をまかなっているとして、上流階級からも尊敬を受けていたと言う。

しかし本書の中でも指摘されているように、近・現代社会において、地位や金の所有で価値を測り、そこから漏れた人間に対して「負け組」と言うレッテルを張り、「価値の無い人間」として片付ける事が本当に正しい基準なのだろうか。そして、その極端で狭い「経済的な価値=人間の価値」と言う基準のみが人間に適用されるべきなのだろうか。それが個々人が自分の本当により良い暮らしを考える事を妨げてはいないだろうか。

人がいつの間にか狂信的に、曖昧な、だけど周りのみんなが信じている方法に訳もわからず向かわざるを得なくなってしまったのが現在の日本やその他の先進国だと思う。

その辺の馬鹿な経済誌(例えばプレ○デント誌など)の馬鹿騒ぎ見ると良い。今の社会の縮図だ。どれもこれも同じような間抜けな特集を組んでいる。「大企業の給与は」「勝ち組になれる大学とは」「企業年収ランキング」。あほかと。

何度も言うが経済的成功を追うことは全く悪い事だと思っていない。まっとうな方法で成功した人は能力に優れた素晴らしい人間だと思う。俺も尊敬する企業家はたくさんいる。ただそれは経済の分野においての事で、それとは関係ない位置にいる大多数まで巻き込んで価値を決め付けるなと言いたいだけだ。

この本の邦題の「もうひとつの愛を哲学する」とは、「ステータスへの羨望」として得られるのでは無いもの。「ステータス」を身に纏えば、周りから羨ましがられ注目を集められる。著者はそれもひとつの愛だと言っている。だが本当の愛とは。本書の解説として表紙にはこう書かれている。

「愛は尊敬の一種であり、ひとりの人間の他人の存在に対する感受性である。自己と他者の真価を正しく認め、評価することの大切さをやさしく説き、いかにして幸福な人生を手に入れるかを哲学する」と。

| books | 01:22 | トラックバック:0コメント:2
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