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live forever
ブリットポップの変遷を描いたドキュメンタリー映画。ロックファン必見。

実は以前にも見たことがあるけどまた見たくなったので借りてきた。

英国の長きに渡るサッチャー政権が終わりを告げ、新たな時代へと活気づいた時代。雑誌の編集者がインタビューで答えているように「もしこうだったらいい」と言う「if」が実現した時代。90年代の前半である。

作品内ではアーティスト(ブラー、オアシス、パルプ、マッシヴアタックなど)のインタビューで流れを追う。英国内のアメリカ文化の繁栄に対するクールブリタニアの反発。サッチャー政権は労組の解体、市場主義の導入など、やや「アメリカ的」な政策を導入しており、それに対する市民の文化的反発のように捉えることもできる。

ブリットポップと言えば「オアシス対ブラー」のチャートウォーで有名だが、当事者である彼らの話によれば、それはメディア(NME)がけしかけた「戦争」であったようだ。ブラーのデーモンは「第3者が絡んでいた」とあからさまな不快感を露にしている。

個人的な好みを言えばブラーもオアシスも好きだ。ブラーの皮肉の利いた歌詞、オアシスの力強い歌詞、どちらも開放された時代には素晴らしいものだったのだろう。

短くも素晴らしき時代。それがムーヴメントに発展した時代。見ていて羨ましいと言うか、そんな感じだ。

俺はブレアとブリットポップが結びついていたように錯覚していたが(もちろんクールブリタニアを売り出したのは間違いないが)、映画で語られるブリットポップの終焉がブレア政権の発足と同時であることが興味深い。その意味ではブレア政権は政治的に素晴らしい後押しを受けて発足した側面もある。ブリットポップ全盛はメージャー政権時代であり、その意味では保守党の政策を受け継ぐ形で支持を得る結果となったブレア政権を端的に現しているような気がしてならない。現在の保守党がややかつての労働党的な思いやり政策を打ち出していたのを見ると、いかにブレアが保守党の政策を引き継いだかが感じられる。

ところで、ブリットポップブームの中で、やはり文化がメディアなど特定の利益に吸い上げられる様も描かれている。デーモン・アルバーンの憤りを見てもそうだし、ジャヴィス・コッカーのインタビューなどでも捉えられる。「あの店は素敵よ、だってスプーンがあんなに汚いんですもの」

そして終焉はオアシスのBe Here Nowの時期で訪れるように描かれる。作品の雰囲気はがらりと変わり、政治に操られたブリットポップの姿がそこにはあった。「彼(オアシスのノエル)は虚勢されたのよ」「俺が一番ムカついたのは、ブレアが息子を私立学校に入れた事。そしてその話をするなとブレア側に言われたこと。だから官邸のパーティーには行く気は無い」

実際その時代を感じていない俺としては(当時小学生で、悪さばかりしてロックの「ロ」の字も知らない少年だった、まぁやっていることはロックだったが笑)真実がどうなのか確かな事はいえないが、確かに描かれる流れを見ると理解できる部分が多い。

最後のノエルのインタビューが傑作だ。あるアイドルグループの振り付けを真似て「(振り付けを真似ながら)何だこれは?俺にはさっぱりわからない。いまや振り付け師の独壇場だ」

ブラーのアルバーンも皮肉たっぷりに「アイドルをアメリカに輸出するのは今までの恩返し」と語っている。

あれから10年ほど。新たなムーヴメントが起こりにくいと言われるなか、何か起こって欲しいと思うのは無理な願いだろうか。
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| 映画 | 03:39 | トラックバック:0コメント:0
ハーメルンの笛吹き男
友達から紹介を受けて興味を持ったので読んでみた。本自体を紹介されたのでは無く、著者の阿部謹也氏の言葉が引用されている新聞の切り抜きを見せてくれた。

曰く「小泉首相の言葉が空虚なのは理念や理想が欠如したまま語られるから」であり、それを日本人が受け入れてしまうのは「私たち日本人全体が理念や理想を必要と思わず、今もって“社会”ではなく“世間”の中で生きているから、にほかならない」から(天声人語9.16より)

「社会でなく世間の中で」

今の日本社会を完璧に言い当てている言葉に出会い驚いていると、どうやら紹介してくれた友達もこの部分が大きく印象に残っていたようだ。この中で「世間」とは「金、名誉、義理などへの関心でできた社会」とされているが、これこそ、日ごろ俺が忌み嫌う「真の意味を持たないもの」そのものである。

ここで言われる「世間」で生きている以上、人はその関心をある種のスタンダードに自分を適応させることのみに集約され、個人が持つ内面や意見や意味そのものは無視される事になる。「世間」とはある意味では人間の人格を奪うもの以外の何者でもない。

「ハーメルンの笛吹き男」はドイツに伝わる伝説から、中世ヨーロッパの社会を暴き、学校の歴史の授業では決して扱われないような、厳しい身分制度の下で生きるありのままの民衆の姿を読み取ることができる。

「鼠の被害に困っていたハーメルンの町にある男が現れ鼠を駆逐する代わりに報酬を要求する。男は笛を吹いて鼠を操り湖まで誘導して溺れさせ駆除した。しかし町の人間はいろいろな理由をつけて報酬を払う事を拒否した。すると男は笛を吹いて町中の子供達を操り、子供と共に山奥へと消えてしまった」ハーメルンの笛吹き男の伝説は大体この様なものだ。

庶民の厳しい暮らしから生まれ口頭で伝えられた伝説。農場主の支配から解放され自由であるはずの「都市」における、経済的な格差による身分差別。一方で甘い汁を続ける上流階級。そしてその体制を維持させるためにハーメルンの伝説は上流知識人に利用されるようになる。

もともと文盲だった庶民から生まれた伝説が、知識人によって都合のよい解釈が加えられ、それを再び庶民に浸透させるやり方など、現代にまかり通るやり方となんら変わらない。作品の冒頭に引用されている言葉が全てを言い当てている。「歌、詩、詞、曲は、私はもともと民間のものだと思います。文人がそれを取って自分のものとし、作るたびにいよいよ理解し難くしたのです。それを結局化石にしてしまうと、さらに彼らは同じように他のものを取り、またもや次第にそれらを殺してしまうのです」

スポーツや音楽やファッション、全てが特定の団体に吸い上げられ、形を変えて社会に再び降りてきた。そんな現代の変形させられた文化を嫌でも思い浮かべてしまう。小泉の、本来意味を持つべきなのに全く中身(議論)の無い、言葉のインパクトだけの政治、メディアと言う、市民が権力を監視するひとつのツールとしてのモノが、権力者に全く逆のものとして作り変えられた部分など、ハーメルンの伝説が作り変えられた事と何ひとつ変わらない。

こうして考えると天声人語に引用された著者の言葉の意味が理解できる。「世間」と言う、作り上げられた身分制度の中で安住することの馬鹿らしさが痛いほど伝わってくる。
| books | 18:53 | トラックバック:1コメント:0
彼は孤立していたそうです。
笑ってしまった。何を今更。

日本のサッカーを統括される立場にある某お方がある選手の状況について今更になって語った模様。記者会見の場で次期監督の名前を「うっかり喋った」のが実は意図的であった事を暗に裏付けるようなこの時期の発表。いつまでファンを馬鹿にし続けるつもりなのか。ちなみにここでは彼を批判はしない。その取り巻きが大きな問題だ。

かの大会の直前から期間中まで、3試合目での帰国が決定するまで、ファンにまともな議論ができる余地は殆ど無かった。あほで間抜けなマスコミどもがあほで間抜けな議論を垂れ流し続けたからだ。サッカーをろくに知らないいわゆる「にわか」と言われる連中が自分の意見を持つ環境を根こそぎ奪い取り、戦時中の大本営であるかのように洗脳を施し、敗戦が決まると「僕は関係ないよ」とばかりに早々と騒ぎから撤収した。

大会中彼が孤立していた事は専門誌を始めとするいくつかのメディアが報じていた。知っている奴は知っていただろうし、それに何の議論もされない事に疑問を感じていた奴もいただろう。代表のエース格がチームに馴染めていないのは日本のような後進国では致命的の筈なのに。だから、誰かが、いちファンがそれを知り、世論が大きな議論を呼べば、選手や協会も何かのアクションを起こせたはずなのに。そしてそれを手助けするのがマスコミだったはず。

本来マスコミが「まともな仕事」をしていたなら、今回のキャプテンの発表に怒り狂っておかしくないはずだ。それがどうだろうか。ネットの記事の隅のほうにちょこっと出でいるような扱いである。職務怠慢。

これで奴らが何の反省もしていないことが決定的になった。大会後も少しは反省するのかなと注目してはいたが、ご覧の通り。馬鹿騒ぎの舞台はリングへと移りそして1枚のハンカチへと移った。そして今回の発表に対する姿勢はどうだろうか?サッカー界のトップが「隠し続けた」事実がこのタイミングで明らかになったのだ。それなのにろくな反応も見せない。マスコミからすれば終わった事。こいつらがどういう姿勢で物事を報じているかこれではっきりした。

結局やつらは俺らが変わらない限り何も変わらない。それが明らかになっただけでも大きな進歩だ。冷静に考えればどこかでおかしいと気づくはずだったが考えることを放棄した時点で人間は負けだ。ありのままで捉えてしまうと、洗脳され決して解かれる事は無い。祭りに入り込んで騒ぐ前に、祭り全体を見渡して、それがいかに馬鹿馬鹿しいかしっかりと眺めるべきだ。それからどうするか考えればいい。
| スポーツ | 02:36 | トラックバック:0コメント:0
Road to war
世界を相手に商売した武器商人のお話。実話のようだ。

実はこの映画についてはある国際雑誌で読んだ事があって気にはなっていたが今更になって見た。ニコラス・ケイジ主演。

こういった所謂アウトローの映画はいくつか見てきた。ブロウなんかその典型で、ストーリーもそれに習うようで、予想されるべき末路と言いたい所だが、彼にはつよーい味方が付いていたわけ。それはGovernment。

ウクライナ移民でアメリカ人の武器商人の話。紛争あるところにビジネスあり。それは漫画のエリア88のマッコイじいさんさながらだ。

良心と言うか、そういったモノが議論になるが、この映画ではその存在そのものに焦点が当てられて、それを視聴者がどう考えるのかであろう。例えば、作品内に出てくるインターポールの刑事だったり、主人公の妻であったり、現実を考え、何が正しいのかを判断させる要素はあるが、ではそれが一概に正しいと言えるかと言えばそうでは無い。

人間ひとりひとりは当然「個人」であるべきで、その存在が尊重されるべきだが、ひとつの利害に晒された時に無意味である事が痛いほど伝わってくる。「必要悪」との表現が映画ではあったが、その「必要悪」がある特定の人間のためである事実をこの反戦映画は描いている。

敢えて「反戦映画」と言い切ろう。ラストのテロップでも本当の「武器商人」が誰か訴えている。そして主人公はその下請けでしかないのだ。なくならない限り、それは利益を生み出す。ある意味、今の資本主義の典型でもあるが、それは特定の利益に汲みした時に物凄い影響力を持つものだと思った。

作品自体はジョニー・デップの「ブロウ」のようなものである。見過ごされがちな人間の末路を描いていると思う。但し、それがヒーローになりうるわけではない事をしっかり描いている。

ブロウでジョニー・デップは実在の麻薬王、ジョージ・ユングを演じたが、彼は決してヒーローにはなれなかった。それと今回、俺が見た作品はどこか被る。

必要悪と言う言葉でどこまで踏み出して良いか分からないが、その存在そのものが「悪」と判断される世の中で、俺たちが見過ごしている問題がどのような物か、それを考える機会にはなったと思う。

彼の売る武器が人を殺していく。しかし需要は形を変えて存在し続ける。形が変われば、ある意味正しいように見える。その末端にいる人間の土キュメンタリーと考えると非常に面白いい作品ではあったと思う。

見たところで決して損は無い作品だと思う。
| 映画 | 05:31 | トラックバック:0コメント:0
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