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ぷにろぐ

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ホラー(笑)
最近「(笑)」を付けてるけど、別にこれから書くことに関しては一切馬鹿にしたニュアンスがあるわけでは無いので誤解しないで下さい。ちなみにこの「(笑)」を語尾につける表現はただ単に面白おかしさを表現するためのものと、某掲示板が発祥と思われる「スイーツ(笑)」に代表されるような、やや嘲笑・冷笑や侮蔑を込めたものと分かれるようだね。個人的な意見としてはいわゆる「スイーツ」の方々に関しては俺も(笑)的な姿勢の人間なので、それに関して言えば、もう古いのかもしれませんが「グッジョブ!」と言ったところでしょうか。(ちなみに俺はそんなには某掲示板を見ないかな、たまにサッカーのスレッドを覗くくらい)

つい一昨日の日記を見て、ある友人がメールで「お大事に」と伝えてくれました。こんな終わった人間を心配してくれてありがとうございます。

病気になって思った事だけど、最悪生涯を通じて付き合わなければならなくなる人もいるようで、普段の考え方等、変化が出てきている部分もあります。まず無駄な金を使わなくなりました。ってか、そもそも治療費もかかるし、金もろくすっぽ持っていないので必然的にそうなるわけだけど、以前の様にほぼ毎日のようにビールやウィスキーを飲んだり、つまみの揚げ物を業務用スーパーで仕入れたりと言うことが無くなり、食事も外食は殆どせず自分である程度のものを作っています。最近ごくたまに飲む時は家でつまみを作ったりします。最近はチリを作りました。挽肉と豆を缶詰のトマトジュースと塩コショウとチリペッパーで煮込む簡単なものです。うちにはチリペッパーが無いのでタバスコソースで代用しています。ちなみにコロンボ警部が大好きな料理でもあります。

メールをくれた友人がホラーにも興味があるとの事なので、病院に持っていって読んだ作品のいくつかについて書こうかなと。


以下にネタバレが含まれますので。


最も最近読んだのは高橋克彦の「ドールズ」と言う作品。

ある女の子がひき逃げに遭い、病院に収容される。命には全く別状は無いが、事故前には全く無かった奇怪な行動を繰り返すようになる。女の子は人形に異常な興味を示し周囲を気味悪がらせるが、ある時彼女の中に得体の知れない何かが入り込んでいる事に周りが気付く。

序盤は日本人形の話も絡み結構な不気味さが漂う作品だが、蓋を開けてみるとけっこう面白おかしい作品だと思う。ネタを殆ど言ってしまえば「女の子の中にいるモノ」が結構面白い奴で微笑ましい限り。ストーリーとしては個人的にはイマイチかな。大体の流れが序盤で分かってしまって、そこからラストも読めてしまうのでエキサイティングでは無いと思う。ただ話し自体は面白いので読む価値はあるかと。日本のある部分の文化の勉強にもなるしね。

個人的に好きな作家は鈴木光司で、リング~らせん~ループは素晴らしい流れを汲む三部作。リングではものすごくカルト的だけど哀しい恐怖を、これは精神的に、日本人が特に怖がるタイプの内容で、外国ホラーに代表されるようなゾンビや不気味な人形が暗闇から突然現れてって言う作品とは全くちがう。あれは極めて肉体的で直感的な条件反射みたいな恐怖だと思うけど、リングは精神をえぐられる様な怖さだね。らせんで医学的な話になって、最後に明らかになる貞子が望む世界ってのがこれまた意味深。「世界を同化させる」ってのは第一にウィルス的だけど、今の世間も俺はウィルス的だと思うけどね。もう「ガン化」は始まってるでしょ。詳しくは書かないけどさ。で、ループでSFの世界へ突入、と。映画で真田広之と佐藤浩一が出てた世界はつまりコンピューター内部でプログラムされた世界だったと言う事。これも詳しくは書かないけど、お勧めの一作です。ちなみに映画より原作の方が遥かに面白いし怖いし示唆に富んでると思う。映画しか見ていない人は是非。鈴木光司は他の作品「ほの暗い水のそこから」「神々のプロムナード」も面白いのでお勧めです。

その他では、数名の作家の短編集だけど「魔法の水」「ゆがんだ闇」を最近読んだ。どちらも角川ホラー文庫から出ています。

どちらもオカルト的なホラーの作品は殆ど無い。個人的にだけど、ちょっと前の「着信アリ」だとか、ああ言った作品には全く興味が無いわけよ。何というか、大衆向けの「フジテレビ的ホラー」(笑)。世にも奇妙な物語はたまに面白い作品があるけど。今挙げた2つの短編集はより現実的な人間の怖さが強いかな。闇なのよ、闇。人間誰にでもあるのだろうけど、それにどう向き合って、付き合っていくのか、この過程とその結果が非常に怖いものになるのではと。

「人間が一番怖い」と思う方には是非。



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| books | 22:38 |
愛と幻想ですか
最近村上龍作品をいくつか読んだのでその感想を。

コインロッカーベイビーズに関しては、ファイトクラブ的なノリが素晴らしいと思う。俺はチャック・パラニュークのファイトクラブをものすごく評価してるんだけど、「コインロッカー~」も暴力的視点がやっぱり衝撃的だった。

実は村上龍作品はこれが初めてだったんだけど、コインロッカーに放置された過去を持つ人間の視点から見る世界は絶望的だし、世の中は未来が無い。だけどラストで彼らは現実を得る。毒ガスを撒くことが何の解決をもたらすかは全く分からないけど、彼らが求める物にたどり着いたのはその時なんじゃないかな。

暴力が何を個人にもたらすかって未だに分からないんだけど、誰もが破壊の衝動を必ず持っているはず。キれるってのはある意味破壊だと思うんだけど、じゃあ何で「破壊する」んだって言われると、結構分からなかったりする。政治的とか経済的な目的で「破壊」を行う人間ってある意味冷静で俺にはすごく怖いんだけど、固い信念を持って、それに突っ走って破壊活動を行う人間ってすごく人間らしいじゃん。そういう人間の底の部分を感じさせてくれたのがこの作品だったかな。

「俺達はコインロッカーベイビーズだ」って作中の台詞を解説で「映画のワンシーンみたいだ」と評価していたけど、その瞬間って彼らが信念の塊になった時かなと俺は思う。こういうのをどう考えるかって普通の生活を送っている人間には想像もつかないことなのかも知れないね。じゃあ、言えるか?と。俺は~だ、と。「~」を埋められるかって言えば俺は絶対無理なんだけど、「~」を埋めている人間が俺らには「テロリスト」だったりするんだよね。そういうのって本当におもしろいと思うよ。でもやっぱり現実は客観視されるものなんだよね。個人で抱く現実は幻想でしか無い時の方が多いのかな。
| books | 22:53 |
25時(小説)
俺の好きな映画の原作。

25時とは、麻薬取引で有罪を受け、7年の刑を食らったモンティと言う若者が刑務所への収監を明日に控え、彼の親友たちとともに娑婆での「最後の」一日を過ごす様子を描いた青春小説だ。

厳密に言えばそれは「最後の」一日では無い。7年後に、服役態度が良ければ約80日ほど早く、彼の人生は「再開」する事になるはずだ。だけど、7年間と言う途方も無い時間が事実上、彼の親友たちや恋人との関係を終わらせるに足る十分な説得力を持つ、と言う意味では彼にとって人生の最後の一日なのである。

この作品はエドワード・ノートン、バリー・ペッパー、フィリップ・シーモア・ホフマンの役者を揃えて映画化されていて、個人的にはかなり評価している作品だ。

原作を読んでいて分かるのは映画では細かく描かれなかった登場人物の背景である。元麻薬ディーラーのモンティには金融トレーダーのフランク、英語教師のジェイコブが固い友情で結ばれている幼い頃からの親友である筈で、それは7年の刑期を勤め終えた後にも彼らの関係は変わらないものである、と言うのが理想だ。しかしながら、彼らは、それぞれがその私生活とモンティの長期の収監との間にいろいろな葛藤を抱えていて、最終的にはそれがとても個人的な感情に終結していると思う。

映画を観た時にも思ったけど、友情と言うようなものは1対1の関係においてもの凄く強く出てくるのだと思う。例えばそれはグループの中においてはある意味では発揮されにくいモノなのかもしれないとも思う。人間関係が3人以上の団体としてまとまった時、そこでは個々の繋がりよりは、その団体の纏まりを維持する方向に意識が向かうと思うからだ。

「変わらぬ友情」は決してフェアな関係では無く、誰かが誰かに服従する関係が一定の団体の纏まりをような構図だと思う。例えば、フランクはモンティを唯一無二の親友であると考えているが、同じ時間を共にしてきたジェイコブに対してはそれほどの友情を感じているわけでは無い。しかしながらそこにモンティを入れるひとつのグループとしての結束は存在しているからそれは凄く面白い。

個人的には1対1で会って話せる人間以外とはそういった「友情」なる関係が共有できているとは思わない。でも団体でまとまった時にそいつが「楽しい人間」と思えるのは、その団体の中で個々の役割が決められていて、それを演じることで関係が維持されているからだと考えている。その団体にその人物は必要なのだけど、個人としてはそれほど重要で無いと思う人間は誰にでもいると思う。

そのような複雑な人間関係を「明日には友人がひとりいなくなる」と言う事実が突き詰められて改めて考える事になるのがこの小説に描かれている最も面白い部分じゃないかと思う。

明日に収監を控えるモンティの描写より、その親友であるフランクとジェイコブの内面がもの凄く重要だ。「7年経っても僕たちは親友だ」と言うジェイコブの前でフランクは「お前は何にも分かってない。今日で俺たちの関係は終わりだ」と切り捨てる。しかしモンティの前では「出所したら一緒に事業を起こそう」と彼を励まし、モンティの恋人には「7年後お前は金目当ての結婚をしているが俺は刑務所の前で出所してくるあいつを待っている」と厳しく批判する。そして後半部分では彼は泣きながらモンティを殴る。フランクの姿勢が彼らの人間関係をよく表しているのではないかと思う。

ジェイコブはどちらかと言えばその関係を内面的に捉えてしまっている。彼は3人の中では非常に平和的な人間だがそれは関係をまだ摸索しているのではと思われる部分が残っている。自らの生徒に恋心を抱き、自身のセックスアピールに思いを巡らす描写などは彼らと比較した自分を考えるに留まっていて、彼ら自信のあり方について積極的な考えを持っているわけではないように思える。

こういう部分が非常にリアルで俺がこの作品を好きな理由の一番のモノだ。

一言で「固い友情」などと人間関係を片付ければそれはある種の結束を生み、楽に関係を続けられるのかも知れないが、ここでは「明日、友達がいなくなる」と言う事実を前に、その関係を改めて考えざるを得ない状況がとても考えさせられる。

もちろん普通の人間にこのような事は起こり得ない事であってなかなか考える事は無いかも知れないけど、この作品を読んでみて、自分にははっきりと友達だと自信を持って言える人間がどのくらいいるだろうかと。

やはり広く浅くでは無くて、数は少ないがフランクとモンティのような関係の友人がいることがいかに自分にとって大事か改めて思い知らされる。
| books | 03:04 |
羊、ダンス、世界の終わり
村上作品集を古本屋で買ってきていくつか読んだ。友人に借りた「カフカ」で始めて読んで、興味を持ったので一応全作読破するつもり。先週末に11冊まとめ買いしたんだけど、うち9冊が村上作品。残りは「時計仕掛けのオレンジ」と「ファイトクラブ」。これは個人的な感想だけどチャック・パラニュークの作品と村上の作品ってちょっと共通する部分があると思う。ストーリーとかではなくて、人物の雰囲気とか…ちょっと説明が面倒なのでこのあたりはまた。

先週末から読んだのは「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(と「ファイトクラブ」)。いずれも2巻以上の長編で結構長かったけど飽きずに何時間も読んでいられた。ストーリーは難解ってわけじゃないけどあまりに抽象的過ぎて一見するとファンタジーのようなそんな印象を受ける。舞台は国内で非常に身近なんだけど、そこでの出来事が現実を超えているからはっきり言って個人的な解釈でしか作品を理解することが出来なかった。

こうして感想を書いていてもはっきり何がなんだか分かっていないわけだが、登場人物、特に主人公の人間性がやや一般社会と離れた部分にあるのが多分俺が一番魅力に感じる部分だと思う。今まで村上作品はこの
3作+「カフカ」「アフター・ダーク」しか読んでいないが、いずれの作品の登場人物もどこかシニカルで現実社会にやや冷めた態度を取る者が多いような気がする。但し、冷めた感じではいるものの、適応していないかと言うとそうでは無く、システムに組み込まれた上で自己を確立させ続けている。

読んでいて強く感じるのは社会に対する洞察だったり、そこにおける自分のアイデンティティーだったり、もの凄く内面的で共感できる部分が多い。登場人物の葛藤やそれに伴う苦しみが俺にとっては強いメッセージだ。「世界の終わり~」でややその部分が強く出ているような気がする、物語の後半の「終わりの世界」での僕と影が議論する場面、静かな世界でこのまま生きようと考える「僕」に対して「影」はその世界の仕組みを説く。まだ「心」を持つ「僕」がその話に涙を流す場面が好きだ。個人的には心を持つ人間が森の中へ追いやられる「終わりの世界」を、「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公が事あるごとに冷めた目線で言う「高度資本主義社会」とダブって見えてくる。心とは疑問を持つことでもあると思うのだが、それが奪われて初めて平和を得ると言うのが、「ダンス~」の主人公が言う「高度資本主義社会」に重なる。もちろん二つの世界は両極端に位置するのだが。

「羊~」では主人公の孤独の印象が強い。社会で生きてはいるが、そこに居場所をいまいち見出せない孤独な人間だ。ただ社会はそれとしてしっかり存在し、なお且つ個人を包み込むものだから、そこに否応なしに適合させざるを得ない。一個人がどう抗おうが無駄だ。ただ気持ちがそれと離れたところにあると、そこに葛藤が出てくる。「羊~」で主人公は羊を解放した後に居場所を見つける。それは多くを失った「自分探し」の旅の結果であった。そしてそれは「ダンス~」で完結するのだが、そのあらゆる物を失い目的地にたどり着く。全てを失う事が現実的だ。全てを失って初めて目的が見えてくる。多数決で決まる現実に対抗する唯一のそして厳しすぎる決断なのだと思う。

結局はここに行き着くのだが生易しい自己満足型の「自分探し」とは決定的に違うものがここに書かれているから俺はこれらの作品が好きなのだと思う。そしてそれは物凄くリアルだからある意味では恐ろしいものだ。自分のみと対比させて否定されるものを完全に否定することには大きなリスクが伴うわけだが、その過程の葛藤や覚悟が人間の一番美しい部分では無いかと思う。そのリアリティーがあるから村上作品から強い印象を受けるのでは無いかと思った。
| books | 01:53 | トラックバック:0コメント:0
海辺のカフカ
Haruki Murakami(←漢字が分からん)の小説。

あまりに面白くて1日で読んでしまった。しかし困った事におそらく中身を殆ど理解できていないと思う。もちろんこの作品はストーリーどうこうに焦点を当てるものでは無いのだろうけど。

実を言えばこのお方の作品を読んだのはこれが始めて。国内外で評価されているのはメディア報道で知っていたけど、どういったものを書いているのかはあんまり知らなかった。友人の話によれば人間の内面を描き出すらしい。その知識のみで読んでみた。

最後まで読んでみたもののストーリーに関してはいまいちよく分からなかった。主人公のオヤジを殺した人間も分からなかったし、戦時中の山梨での事件の意味も分からない。入り口の石もナカタさんの死体から出てくるナメクジのお化けも、ねこ殺しジョニー・ウォーカー(こいつはオレでも個人的に憎い!)やカーネルおじさんも、森の奥の奇妙な村も図書館の職員の女性も、美容師のお姉さんも、主人公の母親が誰なのかも。唯一トラック運ちゃんのホシノの存在だけ現実味があった。

こうして思い返すと彼の作品を読む資格が無いのではないか、と思えてくる。単純で浅はかな思考しか持たない人間としては、読み進めるうちにこうした謎への答えを期待するようになる。オヤジが殺されれば推理小説だし入り口の石が出てくればSFのような読み方を平気でした。

作品の読解力がある人ならこうしたことなど問題にならないのかも知れない。もう一度読めば何か掴めるかも知れないけど、借り物だし。それに長いし。でもさっきも言ったようにこの作品はめちゃくちゃ面白い。そうじゃなければ一日8時間もかけて読んだりしないよ。

で、俺は全く都合の良すぎる解釈をしたわけで以下に感想。

この作品には「メタファー」と言う言葉がたくさん出てきたような気がする。もしかしたら思い違いかも知れないが、とにかく印象には残っていた。間違ってなければ「暗喩」とかそんな意味だったと思う。暗喩と言う言葉自体もしっかり理解しているかどうか疑問だが、書かれていることほぼ全てが暗喩で片付く、てかもう片付けた。書かれていることの真偽自体は物凄く曖昧で出てくるもの全てが何かの象徴のような気がした。だけどその象徴は主人公には紛れも無く「リアル」でそれが一見目的の不確かな旅が現実となっていったのだろうと思う。だから主人公には物凄く大きな意味があった。友人が言っていた「内面」をこういう風に理解した。でも「自分探し」とかそういうくだらないモノでは無い。もっと現実的で切羽詰っている感じがした。

主人公は曖昧な現実の中で何を見たのか。俺は、それが「意味」だと思う。普通曖昧なモノに意味がはっきり含まれる事はあまり無い。でも主人公は遠く離れた、全く関係の無い地で彼の身近にあった意味を見つける。彼は最後に現実世界に戻るわけだが、そこが凄く面白かった部分だ。それが主人公の旅の目的だったと思う。さっきも言ったけど俺は「入り口の石」が何なのか良く分かっていない。その他も全て曖昧な理解だ。だが、そういったものに意味を見つけようとすることが大切なのではとも思う。読んでいる側からすればそれで済むが物語の中の人物は全て真剣だ。曖昧なものの意味を必死で探している。そこが強く印象に残った。

別の友人が作品の中のホシノの言葉が印象的だと言っていた。確か彼はナカタさんを見て「俺は人生を歩むにつれて自分の中身が空になっていく」ような台詞を言う。でも彼は訳のわからない旅に巻き込まれて大きな「中身」を見つけることになる。曖昧から何かを引き出せたのだと思う。

現実社会を見れば全て曖昧と矛盾だ。パールジャムの詩じゃないけど中身はどんどん置き去りにされていく。そんな中で人間が中身を発見できるオアシスはもはや無い。オアシスどころか苦しみ抜いてやっとそれを獲得しなければならないような状況まで来ている。「自分探し」とは聞こえが良い。どこかの国の元サッカー選手(現旅ゲイ人、元ボルトンワンダラーズ。ちなみに小説にも同じ名前の人物が出てくるが、まぁ、偉い違いだ)も好き好んでやるくらいだ。でもある本によると「自分探しはナルシズムだ」とある。物凄く納得する。そこには苦しみや葛藤が無い。「自分を探す自分」がその時の「自分」だ。それで一応の完結を見せ、そしてその時の自分は時間が経てば関係の無い自分になっている。それが今俺くらいの年齢の若い奴に流行の「自分探し」だ。世間知らずの夢追いと変わらない気がする。もし「自分探し」があるならそれは現実を直視し、混沌から何とか意味を見つけるものじゃないだろうか。まさに今の現実と自分とを照らし次に向かって葛藤するものだと思う。現実を受け入れる事が今流行の「自分探し」に欠けている。曖昧なものを曖昧のままやり過ごすだけだ。

友人が言っていた「内面」と言う事を俺はこういう感じに理解した。曖昧なものから現実を見出す。意味を見つける。それが最後には人間に大きなプラスになる。ダークな部分があるとするならそれはまさに「現実」だろう。殆ど多くの人間にとって現実は暗い。でもそれを見据える力が備われば人間には可能性が残される。そうして進んで行くモノだと、この作品を読んでいて思った。 Kafkaontheshore.jpg

| books | 02:24 | トラックバック:0コメント:3
ざっと
最近読んだ本について。


大統領の英語 松尾一之著、講談社学術文庫

アメリカの歴代大統領を政策や人間性などの観点から解説してくれる。実際に話された言葉や教書演説の英文が載っていて、それに対する解説、考察がなされているので、時代背景を掴めるという点では近代アメリカの歴史入門書のような感覚で読める。

ここでの「英語」とはアメリカ社会を映し出すようなもので、文法やスペルに寛容なアメリカ英語から、君主制から逃れてきた背景を持つ国の民主主義に対する意識が窺える。

ところで、J・W・ブッシュ大統領に関しては「あぶない英語」などと書かれているように、彼の発言がいろいろと議論を呼んだ事についても書かれている。English Patientなどとジョークにされたらしい。読み終えて分かるのだが、歴代大統領に比べ、ブッシュに関しては資質を疑うような気分になる。現職なので歴史的評価が難しいのかもしれないが、これ程困った人も珍しい。


Age of Propaganda A・プラトカニス/E・アロンソン著、誠信書房

嫌と言うほど広告にさらされて生きている現代人への教育書みたいな感じ。邦題に「広告、政治宣伝のカラクリを見抜く」とあるように、「洗脳」の具体的な内容に触れることが出来る。こういった本でよく言われるのが広告は「事実よりもイメージを植えつけようとする」と言うこと。一般に言う「広告とは消費者と企業が双方の利益にかなった正しい情報の交換」と言うのはとんでもない馬鹿げたでたらめで、実は広告は巧妙に消費者を操作する。

「PR」と言う本によれば、現代の情報操作の起源は実は100年近くも前の事で、その時すでにイメージによる洗脳は始まっていたと言われている。社会の秩序維持には少数エリートが「適切に」大衆を導くべきだ、と言う考えが強く、それが後の広告業界に多大な影響を及ぼした。

この本で書かれているのは、そうした巧妙な宣伝の具体的な方法と、その病的なまでの思想。広告やら宣伝などに影響されないと思っている人こそ読んでみるべきだと思う。何か物を買う時に、その決定はいったい誰が下しているのか。物の本当の価値で買っているのか、それとも広告が植えつけるイメージが気付かぬうちに引き金となっているのか。

「~を持っていることがかっこいい、~を着ていることがかっこいい」などと思って消費している人間は、実はある意味ではものすごく幸せな無害な連中だと思う。悲劇なのは、そうでない人間が知らないところで操作されてしまっている事かも知れない。

ところで、本書の中で「何も言う事が無ければ歌えばいい」と言う広告の手法があるらしいのだが、W杯中に「コッカコーラを飲も~うよ!」と馬鹿みたいに踊って歌う明石家さんまのCMを思い出して笑ってしまった。 


Survivor チャック・パラニューク著、ハヤカワ文庫

映画Fight Clubの原作小説を書いた人の第2作目。著者のHPが非常に充実していて全く飽きないのだが、彼の作品は「孤独な人間の他人とのつながりについて」がテーマらしい。Fight Clubなんか確かにそうだ。主人公は…もう言わなくても分かる。

この作品の主人公テンダーは、あるカルト教集団の中で生まれた。教団で生まれた子供は堕落した外界の奉仕者となるべく、一定の年齢に達すると社会に出される。主人公は金持ちの家の家政夫をしていた。

前半で、ある偶然から自宅に自殺志願者が電話をかけてくるようになり、彼はその背中を押し始める。つまり「死ね」と。この「死」と言う概念は彼の中で重要な位置を占めていて、彼は内面でそれを模索する。中盤から後半にかけて、ある奇妙な少女との繋がり、そしてカルト教団の生き残りとしてメディアから「カリスマ」に仕立てられ、彼の人生は多くの嘘によって変わる。

実は彼は頭がいい。日常生活での有用な情報をたくさん持っている。そしてその情報は多分に虚偽のために使われてしまうのだが、このあたりにFight Clubとの共通項が見える。頭のいいタイラーは、最後にはビルを爆破する。テンダーは作品の最後に飛行機をハイジャックし墜落させる。

こうした最後を見ると、誤魔化しだらけの現実を受け入れられない人間の葛藤が見えてくる。彼らを見ていれば、著者の言う「孤独な人間」がどういう人間だかイメージできると思う。ファイトクラブでタイラーは言う。「神が俺たちに気付いてくれないなら、神に憎まれた方がマシだ」この言葉が響く。


ドキュメンタリーは嘘をつく 森達也 草思社

最近では一番面白かった作品。オウム信者を題材にした映画「A」の作者の本。

これまで「事実が大切」といかに簡単に口走ってきたか思い知らされ、「事実」について考えさせられた。著者は公正中立が謳われるドキュメンタリーを「有り得ない」とばっさり斬り捨てている。カメラと被写体がある以上は表現者の表現行為であり、そこに個人的な意識が絡んで当然だ、と。

事実とは何かと思う。人間が知りえる情報は、まさにその個人が目撃した事か他から得られる情報に過ぎない。ものすごく極端な話になるが宇宙人はいない、ネッシーはいないと言うのはこの観点からすれば情報だと思う。夫の知らないところで妻は浮気をしているかも知れない。知らない事を得ようとすればそれは必然的に受けてになりがちだ。だからこそ中立など有り得ない。

オウムの事件に関して著者は社会が思考停止に陥ったと言う。動機が不明の大量殺人を考えず単純悪として片付けた(誤解の無いように言っておくがオウムの犯罪を肯定する内容では全く無い)。被写体にモザイクを入れる報道はこれを期に増したと言っている。モザイクが得体の知れ無い負の象徴として使われたと。

ドキュメンタリーでは被写体を映す表現者の葛藤が視聴者に思考を促す要素だとしている。逆にそれがものすごくリアルだ、と。確かに現在において人が受け取る情報とはパッケージ化された消化しやすい商品でしか無い。何の苦痛も無くすんなり飲み込める。だがそれでは絶対に実を定義できない。情報の受け手である人が事実を自ら知りえない前提に立てば、必ずそこに意見や葛藤を持って対抗するしかない。だからオウム報道のモザイクは受け手に事実を「悪」として片付ける。

自分の知らないところで何が起きているかについては、人はあらゆる想像が許され、意見が持てるはずなのに、情報を提示されたときに、思考が止まるのはおかしいくないだろうか。なら事実って何だとなるが、その終わりの無い葛藤が大切なのかも知れないと考えさせられた。



| books | 20:08 | トラックバック:0コメント:0
もうひとつの愛を哲学する(原題:Status Anxiety)アラン・ド・ボトン著
この間近くの古本屋で買ってきた。今まで読んだ書物の中でもかなり印象的な部類に入ると思う。

タイトルだが邦題だと何を言っている作品か少し分かりにくい。原題の方が本書の内容をストレートに表しているのでイメージし易いと思う。

Status Anxiety

直訳すれば「ステータスへの羨望」とかそんな感じだと思う。人間の価値が「どんな仕事に就いているか、何を持っているか、何を着ているか、何を食べているか」などの「ステータス」で測られる社会で生きる現代人に前向きなメッセージをややシニカルに語ってくれる。

別の捉え方をすれば、そういったライフスタイル一辺倒な世の中を告発し、もう一度読者により良い暮らしについて考える時間を与えてくれるようにも思える。「ステータス社会」への変遷を歴史的に解説してくれていたのが個人的には良かった。

この本を読んで思ったのは、ステータス社会は形は違えど現在に至るまで歴史的に存在してきており、そこでの容赦無い人間の篩い分けに対する解答が今もってなされていない事だ。この本でも書かれているように「ステータス」とはつまり「金・物・地位の所有」である。現代ではほぼそれが100%ではないだろうか。そしてその基準がその人間の身分を決める。

だがそれはいわゆる日本でも議論される「格差」の問題では無い。そもそも「格差」と言う考え方自体がおかしい。よく言われるが、今では多くの国が自由競争の社会。確かにいろんな問題も含むが、それは人間の平等を確立するうえで絶対に必要なものだ。その中で「経済的な格差」が出るのは当然だし、健全な事だと思う。

問題なのは(そして一番俺がムカつくのは)それを「人間の価値の格差」として当たり前のように適用する事だ。本書の中で過去の身分制度社会では意外にもステータスの格差への不満が少なかった事が挙げられている。それは階級間に尊敬があったからと述べている。例えば低い身分である農民は、社会的な尊敬を受けていた。ピラミッドの下層にありながらも、ピラミッド全体の食料をまかなっているとして、上流階級からも尊敬を受けていたと言う。

しかし本書の中でも指摘されているように、近・現代社会において、地位や金の所有で価値を測り、そこから漏れた人間に対して「負け組」と言うレッテルを張り、「価値の無い人間」として片付ける事が本当に正しい基準なのだろうか。そして、その極端で狭い「経済的な価値=人間の価値」と言う基準のみが人間に適用されるべきなのだろうか。それが個々人が自分の本当により良い暮らしを考える事を妨げてはいないだろうか。

人がいつの間にか狂信的に、曖昧な、だけど周りのみんなが信じている方法に訳もわからず向かわざるを得なくなってしまったのが現在の日本やその他の先進国だと思う。

その辺の馬鹿な経済誌(例えばプレ○デント誌など)の馬鹿騒ぎ見ると良い。今の社会の縮図だ。どれもこれも同じような間抜けな特集を組んでいる。「大企業の給与は」「勝ち組になれる大学とは」「企業年収ランキング」。あほかと。

何度も言うが経済的成功を追うことは全く悪い事だと思っていない。まっとうな方法で成功した人は能力に優れた素晴らしい人間だと思う。俺も尊敬する企業家はたくさんいる。ただそれは経済の分野においての事で、それとは関係ない位置にいる大多数まで巻き込んで価値を決め付けるなと言いたいだけだ。

この本の邦題の「もうひとつの愛を哲学する」とは、「ステータスへの羨望」として得られるのでは無いもの。「ステータス」を身に纏えば、周りから羨ましがられ注目を集められる。著者はそれもひとつの愛だと言っている。だが本当の愛とは。本書の解説として表紙にはこう書かれている。

「愛は尊敬の一種であり、ひとりの人間の他人の存在に対する感受性である。自己と他者の真価を正しく認め、評価することの大切さをやさしく説き、いかにして幸福な人生を手に入れるかを哲学する」と。

| books | 01:22 | トラックバック:0コメント:2
ハーメルンの笛吹き男
友達から紹介を受けて興味を持ったので読んでみた。本自体を紹介されたのでは無く、著者の阿部謹也氏の言葉が引用されている新聞の切り抜きを見せてくれた。

曰く「小泉首相の言葉が空虚なのは理念や理想が欠如したまま語られるから」であり、それを日本人が受け入れてしまうのは「私たち日本人全体が理念や理想を必要と思わず、今もって“社会”ではなく“世間”の中で生きているから、にほかならない」から(天声人語9.16より)

「社会でなく世間の中で」

今の日本社会を完璧に言い当てている言葉に出会い驚いていると、どうやら紹介してくれた友達もこの部分が大きく印象に残っていたようだ。この中で「世間」とは「金、名誉、義理などへの関心でできた社会」とされているが、これこそ、日ごろ俺が忌み嫌う「真の意味を持たないもの」そのものである。

ここで言われる「世間」で生きている以上、人はその関心をある種のスタンダードに自分を適応させることのみに集約され、個人が持つ内面や意見や意味そのものは無視される事になる。「世間」とはある意味では人間の人格を奪うもの以外の何者でもない。

「ハーメルンの笛吹き男」はドイツに伝わる伝説から、中世ヨーロッパの社会を暴き、学校の歴史の授業では決して扱われないような、厳しい身分制度の下で生きるありのままの民衆の姿を読み取ることができる。

「鼠の被害に困っていたハーメルンの町にある男が現れ鼠を駆逐する代わりに報酬を要求する。男は笛を吹いて鼠を操り湖まで誘導して溺れさせ駆除した。しかし町の人間はいろいろな理由をつけて報酬を払う事を拒否した。すると男は笛を吹いて町中の子供達を操り、子供と共に山奥へと消えてしまった」ハーメルンの笛吹き男の伝説は大体この様なものだ。

庶民の厳しい暮らしから生まれ口頭で伝えられた伝説。農場主の支配から解放され自由であるはずの「都市」における、経済的な格差による身分差別。一方で甘い汁を続ける上流階級。そしてその体制を維持させるためにハーメルンの伝説は上流知識人に利用されるようになる。

もともと文盲だった庶民から生まれた伝説が、知識人によって都合のよい解釈が加えられ、それを再び庶民に浸透させるやり方など、現代にまかり通るやり方となんら変わらない。作品の冒頭に引用されている言葉が全てを言い当てている。「歌、詩、詞、曲は、私はもともと民間のものだと思います。文人がそれを取って自分のものとし、作るたびにいよいよ理解し難くしたのです。それを結局化石にしてしまうと、さらに彼らは同じように他のものを取り、またもや次第にそれらを殺してしまうのです」

スポーツや音楽やファッション、全てが特定の団体に吸い上げられ、形を変えて社会に再び降りてきた。そんな現代の変形させられた文化を嫌でも思い浮かべてしまう。小泉の、本来意味を持つべきなのに全く中身(議論)の無い、言葉のインパクトだけの政治、メディアと言う、市民が権力を監視するひとつのツールとしてのモノが、権力者に全く逆のものとして作り変えられた部分など、ハーメルンの伝説が作り変えられた事と何ひとつ変わらない。

こうして考えると天声人語に引用された著者の言葉の意味が理解できる。「世間」と言う、作り上げられた身分制度の中で安住することの馬鹿らしさが痛いほど伝わってくる。
| books | 18:53 | トラックバック:1コメント:0
REEFER MADNESS Sex,Drugs,and Cheap Labor in American Black Market by Eric Schlosser
Fast Food Nationの著者のノンフィクション。

FFNでは、著者の姿勢に大いに共感し、俺が物事を考えるうえでの大きな助けのひとつになったと思う。読めばはっきりするが、それは「他人様の国の事」と単純に片付けられないようなモノだ。今ではどこにでも存在し、うまく共存していかなければならないモノだ。「真ん中を指していた(もしくは指すべき)針が片方に大きく振れた」のが今の世の中だと俺は思っていて、バランスを欠いた社会で不利益を被るのは決まった人間達である。

制度は大方の物事を決めるルールみたいな物だから、当然、その形成に何の意思も反映されない連中からすれば、フェアに、有効に機能することを願う以外何の術も無いと思うが、価値観の議論になると伝統やら宗教やらに押され、オープンな議論は流される。

最も危険だと思うのは、意思決定の立場にある者とそうでない者の間の溝が深刻な程に大きく、それが結果的に制度の破綻を招く場合だと、少ない知識ながら俺は感じる。制度が秩序を保つ為にあるのなら、制度が引き金となって無秩序を招く事は大きな矛盾だと思う。

俺がそんな事を思いながら読んだのが、この作品Reefer Madnessで著者が題材に挙げている、マリファナと不法移民の労働の問題だ。医学的な問題であるはずの薬物が宗教的価値観に摩り替えられ、不法移民の問題がその取締りに焦点を当てられる。それが制度の奇妙な基準に置き換えられるのが、本当に現在の「正当な価値観」なのだろうか。

形そのものの完成度より、それの下の置かれる人間の問題について語る姿勢が、俺がこの著者に大きく共感する部分だ。それも、ただ闇雲に怒るだけでなく、別の道もあるのではと考えさせてくれる。

話は作品からやや飛ぶが、戦争の大儀が、恐怖への治療薬になってしまっている事や、最低限のラインで共有していた価値観が崩壊し、人々の繋がりであるべき社会が、ただの人の集まりになってしまい、実は意識においてバラバラである事が招く結果をわかっているのに、それを止められないカラクリを考え、変えていくべきだ。

読み終えてみて思ったのはそんな事。


最後にPearl JamのWorld Wide Suicideより。

Looking in the eyes of fallen

You got to Know there's ANOTHER ANOTHER ANOTHER ANOTHER

ANOHTER WAY




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